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| 2010/01/29 | |
| 下関駅周辺地区 | |||
| 1 | 大歳神社 | 源義経が壇ノ浦の合戦の必勝祈願をした地と伝えられている。 麓の大鳥居は幕末の富商で維新の志士たちを庇護した白石正一郎が文久2年(1862年)に寄進したもの。 長い石段を登りつめた境内には、めずらしい「七卿落ち(しちきょうおち)」の画碑がある。 「七卿落ち」とは、文久3年(1863)8月、京都朝廷で起こった政変により、反幕派7人の公卿が京都から追放され長州に下った事件をいう。 |
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| 2 | 厳島神社 | 伝えによると平氏が安芸の宮島厳島神社の分霊を祀っていたが、文治元(1185)年に社殿を創建したのが始まりという。 小倉城の太鼓がある。 |
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| 3 | 桜山神社 | 日本で一番はじめにできた招魂社で、志半ばで亡くなった高杉晋作の霊を招魂し、慶応元(1865)年8月6日に鎮座祭が行われた。 高杉晋作の他、久坂玄瑞、吉田松陰、奇兵隊戦士等も招魂されている。 |
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| 4 | 海峡メッセ 海峡ゆめタワー |
国際コンベンション施設・商業ビルと高さ153メートルの展望タワー「海峡ゆめタワー」で構成されている。 「海峡ゆめタワー」では、展望台(高さ143メートル、西日本第1位)から関門海峡はもちろん、対岸の九州や日本海側が一望できる。 特に、巌流島の絶好のビューポイントで、夜はバリエーションに富んだライトアップに照らされ海峡の風景にアクセントを添えている。 |
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| 5 | 旧山陽ホテル | 明治34年(1901年)山陽鉄道の馬関(ばかん)駅が西細江(にしほそえ)に開業したのを期に、明治35年12月に鉄道ホテルの第一号として開業した。 関釜連絡船の発着所でもあったため利用客は政・財・官界の要人が多く、宿泊した有名人の中にはベーブ・ルースやヘレン・ケラーなどの名前もある。 最初にできた建物は大正11年(1922年)に焼失したので、現在は大正13年に建て替えられたものの一部が残っている。 昭和17年(1942年)関門鉄道トンネルの完成により下関駅が現在の位置に移転したことに伴い、その役割を終え、その面影を現在にとどめている。 →大正末期の山陽ホテルと下関駅 |
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| 6 | 日和山公園 | この公園は春の桜の名所で、高杉晋作陶像を取り囲むように桜の花が咲き誇る。 昭和11年に建てられた高杉晋作の銅像は第二次世界大戦の金属供出で失われ、現在は備前焼の陶像が再建されており、ライトアップもされている。 |
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| 7 | 光明寺 | 文久3年(1863年)4月、久坂玄端は各地の浪人などを引き連れ、京都から下関へ帰り長泉寺(ちょうせんじ)を宿舎にしたが、のちにこの光明寺移った。 この一団は「光明寺党」と呼ばれ、高杉晋作が奇兵隊を結成した際、その母体となった。 なお、下関市内には光明寺という名の寺院は他に5カ所あります。 |
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| 8 | 白石正一郎旧宅跡 | 高杉晋作は文久3年(1863)6月、廻船(かいせん)問屋 白石正一郎(しらいししょういちろう)の後ろ盾を得て同士と共に、当地において「奇兵隊」を結成した。 白石正一郎は竹崎の廻船問屋で、鈴木重胤(すずきしげたね)に国学を学び早くから勤王(きんのう)の志があったが、西郷隆盛に接したことから実際の活動に入ることになり、坂本龍馬ら諸藩の志士と広く交わり彼らの陰の力として大きな役割を果たした。 |
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| 9 | 高杉晋作終焉の地 | 肺結核が重くなっているにもかかわらず、小倉口での幕府軍との戦いを指揮した高杉晋作は、慶応3年(1867年)4月14日、この地で27歳8ヶ月の生涯を閉じた。 | ![]() |